先日、叔父の葬儀に参列しました。
年齢を重ねると、思い出をくれた大事な人を見送らなくてはいけない現実を突きつけられることも多くなるわけなのですが、それは当たり前といえば当たり前の自然の摂理でもありますが、頭では理解できていても、(その時)というのは急すぎて、気持ちがついていけないものですね。
ちょうど1ヶ月前に、法事で叔父と会って。みんなで写真を撮ったけれど、それが最後の写真になるとは思いもしなかったなぁ。
叔父は法事の翌日に、背中の激痛で病院へ。 その時、既に全身に癌が転移していて手の施しようが無い状態、余命3ヶ月と言われましたが、数週間後2度目に余命を聞いた時は、あと3日と言われ・・・。 実際は、1ヶ月ほどの命でした。
あまりにも急すぎて、この1ヶ月は私自身も生きている心地がしなかったし、葬儀を終えてようやく落ち着いた今も、何だか実感なく。
叔父には、相当可愛がってもらっていてブログに書けないような経験もさせてもらいましたw
60過ぎても白のオープンベンツを乗り回すイケ叔父。 今も、とてつもない喪失感。 単なる親戚ではなく本当に特別な人だったので、言葉にならなかった。
悲しみを共有し合えるのは、やっぱり家族親族。 この悲しみを乗り越えるために、一緒に思いっきり悲しみを分かち合う。 だから家族って居てくれるのかなぁとも思う。
これからきっと、こういう機会がどうしても増えてくる。 これは仕方のないことなのだ。
悲しいけれど、気持ちを整えて、フォーマルに着替え、葬儀へ向かう。 葬儀が終われば、何もなかったかのように日々が迎えにくる。
これが現実で、その繰り返しで、それでいいんだけれど、どこか空虚で、日常が残酷にさえ感じる。
悲しみの深さは、生前に相手がそれだけ私のことを大事にしてくれていた証だと誰かが教えてくれた。
みんなで昔話に花を咲かせ笑って泣いての情緒が忙しくも良い葬儀でした。
密葬の数日後に、社葬があるのですが叔父は会社を経営していたので1000人ほど会葬にいらっしゃるそうです。
叔父の壮大なドッキリな気がしてならないよ。
二度と来ない夏。
暑い、暑い夏の日でした。